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年の初めの雑文

日記

腰が痛い腰が痛いと嘆いている間にいつしかとしもすぎの戸を開けてしまった。

この、蛍の光の「いつしかとしもすぎのとを」というのは

とし:疾し(はやい)、年

すぎ:杉、過ぎ

の掛詞で、いつしか早くも年が過ぎて杉の戸を開けて新年だ、というような意味になると教わった気がしたのだけど、今ネットで調べてみるとこの「とし」のところの掛詞を説明しているものはぱっと見た感じでは見つからなかった。

「とし」という言葉は今どき早いという意味では使わないけれど、男性の名前では「俊」とか「敏」とかを「とし」と読むのは、「俊」も「敏」も「俊敏」という単語があるように、「はやい」という意味があるからだ。

まあ確かに文法的には「疾しも過ぎ」はおかしくて、「疾くも過ぎ」が正しいのだけど。

ちなみにローマ神話でも年が変わることを門を開けることに例えていて、その門を守っているヤヌス(Janus)という神様は門のこっちとあっちを見張るために顔がふたつある。

一月をJanuaryというのはこのJanusの名前から来ている。


あらたまの年の初めのためしとて終わりなき代のめでたさを松竹立てて門ごとに祝うという感じでもないらしく、近所の玄関を見ても正月飾りをやっている家は一軒もない。

まあ、そういう時代か。

正直大晦日に東京の感染者がいきなり1000人の大台にのったばかりでなく、それが1300人超えだったとあって、めでたい気分でもない。

と、この「一月一日」という歌の歌詞を念の為調べたら「終わりなき世の」となっていた。

「おわりなきよ」の「よ」は君が代の「よ」と同じ意味だから、字を当てるなら「代」が正しいと思うのだけど。

作詞者が「世」としたんだろうし、まあどっちでも意味は通るし、今は「代」が「天皇の治世」で「世」は「世の中」と分けて理解しているけれど、当時はそのふたつが一体だったのだろうから、そういう意味ではどっちでもいいのかもしれない。


さて。

まあ要するに何を書いていいのかわからんのだ。

2021年がどんな年になるのか想像もつかない。

ましになるのかひどくなるのかもわからない。

ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを聞いていたら、ムーティが「美しく青きドナウ」を振っていて、覚えず涙が出そうになった。

毎年必ず演奏されるこの曲。

聞く側の問題なのか、ムーティの意図なのか、とにかく前半は、だるく、重く、足が進まない、これ以上先に進みたくないという雰囲気がすごかった。

途中で演奏が止まっちゃうんじゃないかと思った。

まるでこのCovidに支配された一年の倦んだ気持ちを象徴するような。

そんな気持ちを吹き飛ばす第5ワルツ。

そしてコーダ。

いつの間にか、3/4のワルツだったはずが6/8のマーチみたいな、応援歌みたいな、語弊を恐れず言えば軍歌みたいな。

勇壮な、決然とした意思で前に進む曲調に変わっていった。

たしかにこの曲は敗戦国オーストリアの市民を応援する歌詞がつけられているそうなので、そういう意味ではもともとそういう曲なのかもしれないけれど。

空元気でもいいから、出していくしかない。

天下のウィーンフィルが、無観客でラデツキー行進曲を演奏していた。

世界中で、観客がみんなで手拍子していることを感じながら、信じながら、私も手拍子を打った。


年末から義妹が遊びに来てくれている。

なんともありがたい話だ。

義両親とも、義親戚(?)とも連絡を取り合って、お互いの健康と再開を祈りあった。

たいきものはなも、コロナなんか関係なく着々と成長していく。

最近はのはなの成長が著しい。

どんどん言葉が増えていく。

表情も豊かに。

意思表示もはっきりと。

これをしてから、あれをする。

こっちを食べてから、あっちを食べる。

そういうことを自分で決めるし、ちゃんと意思表示する。

今年はしばらくはそんなひとつひとつを記録する日記になるかもしれない。


いつまでこの日記を続けるかもまだ考えていないけど、もうしばらく続けるかな。

今年もよろしくお願いいたします。

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