ヘレニズムとチーズとたいきとのはな(ミリンダ王の問い)
ミリンダ王問経(ミリンダ王の問い)という本のことをふとしたことで思い出した。
何かの小説(多分「創竜伝(田中芳樹)」だ)に出てきて、面白そうだと思って読んだのはもう20年以上前。
ヘレニズムの君主であるメナンドロス1世(ミリンダ王)と、インド仏教の阿羅漢(高僧)ナーガセーナ(龍の軍という意味)の対話集。
時代は紀元前2~1世紀の話。
ミリンダ王があれこれ世の理について質問し、ナーガセーナがそれにインド哲学をベースに答え、最終的にはミリンダ王は仏教に帰依したと言われている。
なかなか固い本だけれど随分面白かった印象がある。
なんでこの本は歴史の教科書に出てこないんだと学校の先生に聞いたら「ミリンダ王が仏教に帰依したからと言って、ギリシャやヨーロッパまで仏教に支配されたわけではないので、その本の歴史的意義は限定的なのだ」と説明してくれた。
今考えても、これ以上ないという完璧かつ簡明なご説明だった。
なるほど、歴史の教科書に取り上げられる事件の重大性というのは、その後の世界に与えた影響の大きさ(つまりそれを歴史的意義という)が基準になっているのか、と納得した。
私は暗記が嫌いだったので世界史の成績はさっぱりだったけれど、歴史の本を読んで色んなことを理解することは大好きだったし、色々な考察をすることも大好きだった。
そんな風に育ったきっかけは、この先生とのこの対話のおかげだったかもしれない。
しかし考えてみれば、この時期、つまりアレクサンダー大王の東征からディアドコイ戦争以後、インドがギリシャ人に支配されることによって、メナンドロス王からさらに100年後くらいからではあるけれど、いわゆるガンダーラ美術(ギリシャ風の仏教美術)というやつが生まれたのだ。
そもそも仏像を作ること自体が原始仏教では禁止されていたのだけれど、ギリシャ人が偶像を作ることをもちこんだおかげで仏像が作られるようになった。
そのせいで、今の日本にある仏像はみんなギリシャ風の服を着ているわけだし、そもそもこの「仏像」というあからさまに霊験あらたかな感じの偶像がなければ、天竺(インド)から震旦(中国)を通って、はるばる日本の国教になるまで伝播はしなかったのではないかと思う。
その前哨戦ともいうべきギリシャ哲学とインド哲学の対決と著したこの名著は、その「ミリンダ王の仏教帰依」という事件性についてではなくて、「こういった対話、異文化コミュニケーションが平和裏に行われる時代背景があったのだ」という文化史的な意味において、端倪すべからざる歴史的意義があるかもしれないと今は思うのだけど。
どうだろう。
この本の中に「変化するものは、変化前と変化後で、同じものなのか違うものなのか」という質問がある。
ギリシャには有名な「テセウスのパラドックス」という話があって、要はこれは答えが出ない問題とも言われているので、ミリンダ王はそれを念頭に質問したのかもしれない。
テセウス(ギリシャ神話の英雄)のパラドックスを簡単に説明しておくと
「英雄テセウスをたたえるために彼の乗船をアテネに保管していた。ところがだんだん傷んできたので船大工が少しずつ修繕して行って、いつの間にかオリジナルのパーツは一つも残っていない状態になってしまった。はたしてこれは、今でもテセウスの船なのか。」
というお話。
また、追加で
「ある人が修繕のたびに外されるパーツを全部取っておいたとして、その古いパーツを全部組み合わせたらちゃんと一艘の船になったとすると、これはテセウスの船なのか。さっきの船とこっちの船と、どっちがテセウスの船なのか」
という話もある。
どっちが正解ともいえるし、しかし両方正解だとするとテセウスの船が二艘になってしまって、これは直感的におかしいのでパラドックスなのだ。
このアリストテレスも取り組んだ難問に、ナーガセーナはこう答えた。
「同一のものでも、違うものでもない」
これはパラドックスをそのままパラドックスのまま答えているような答えだけれど、ギリシャではこれはだめでも、インドではこれでいいのだ。
「少年時代のあなたと、立派に成人した今のあなたは、全く同じものか」
「違うものだ」
「しかしあなたの両親は、子供の頃のあなたの両親でもあるし、今もあなたの両親でしょう」
ミリンダ王は混乱する。
「変化してしまったものでも、ひとつに統合して理解すべきものがある」
みたいなことをナーガセーナは言って、ミリンダ王はますます混乱して、何かたとえ話をしてくれという。
「一晩中燃え続けるろうそくの炎があったとして、夜中の炎と明け方の炎は同じ炎でしょうか」
「同じとは言えない」
「では違う炎ですか」
「その炎は一晩中おなじろうそくで燃えていた炎なので、同じとは言えないまでも、違うともいえないものだ」
「つまりそういうことです」
まだ納得できないのでもう一つたとえ話をという。
「牛乳を放っておくと、バターになったりチーズになったりしますが、誰かが「だから牛乳はチーズなのだ」と言ったらどうでしょう」
「確かに牛乳がチーズになったのだから別のものだとは言えないが、同じものだとも言えない」
「つまりそういうことです」
ミリンダ王は感心したという。
わかったようなわからないような話だけど、まあいいのだ。
彼は納得したのだから。
ギリシャの人の考え方は、物事を分解し、分類し、本質を突き詰める考え方だ。
インドの考え方は「他にも似たようなのあるじゃん。だから別に突き詰めなくても、そういうこと、ってことでいいじゃん。」という考え方だ。
ギリシャはもちろん多神教の国だったけれど、一神教的な考え方だともいえる。
ヨーロッパにおける科学の発展は「神が作った世の中はシンプルで美しいはずだ」という信仰が原動力だったという話があるけれど、実はヨーロッパ人が科学を突き詰めて産業革命を起こしたのはキリスト教のせいというよりギリシャ哲学のせいかもしれない。
さて、本題だ。
たいきものはなもかわいい。
いずれかわいくなくなるのか、いつまでもかわいいのかはわからないけれど、いつまでも今のままではないことだけは確かだ。
今は手がかかるし、精いっぱい愛しているけれど、そんなことは彼らの記憶には残らないだろうし、残ってほしいと思っているわけでもない。
成長した彼らが私に何を語り、反抗期ともなればどんな仕打ち(笑)をするかわからないけれど。
そのときには「チーズだな」って思うことにしようと思う。
おわり
*「ミリンダ王の問い」の引用部分は私の記憶に基づく引用なので正確性はまったく保証しません。まちがっても二次引用して、あたかもこれが原典であるかのような扱いをすることがないようにお願いします。

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