朝に道を聞かば夕に死すとも可なり
なんとも幸せなことだ。
子供二人に恵まれた。
たいきものはなもかわいくてしかたない。
孔子は
「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」と言ったという。
あしたにみちをきかば、ゆうべにしすともかなり
と読む。
朝、真理について知ることができたならば、その夜、死んでしまってもかまわない。
という意味だ。
どうも、この真理というのは子供を持ってはじめてわかることであるような気が、子供をもってみて、している。
自分が生きることの意味。
自分が死ぬことの意味。
どうにも言葉では説明しようがないけれど、子供の笑顔を見ていると、全部わかったような気持ちになる。
そして、孔子ではないけれど、それがわかってしまって、今これだけ幸せで。
今死んでも悔いはないなと確かに思うのだ。
前にもどこかに書いたか忘れてしまったけれど、徒然草には
「子供がいない人には世の情けがわからない」
ということが書いてある。
まあ、その通りだなと思う。
少なくとも私は子供を持つ前と持った後で、あらゆるものの見方や解釈が変わってしまった。
なんとも不思議なことだ。
今日ものはなはかわいかったし、たいきもかわいかった。
のはなは喃語を話すようになって、いまのうちに動画をたくさん撮っておかなきゃと思う。
この時期は本当にあっという間に過ぎてしまうのだ。
たいきともいろんなことをお話しした。
最近は色々なことができるようになった分、たいきをしかることも増えたけれど、ちゃんと話は聞いてくれる。
その上で、不満そうにしてたり悲しそうにしてたりすることもあるし、言ったとおりにしてくれないこともたくさんあるけど、それはそれでいいのだ。
何をしたのか忘れたけど、驚いたこともあって少し大きな声で「たいき!」と言ってしまったことが最近会った。
たいきは「おとうしゃん、こえがすこしおおきすぎるよ」と言って泣いていた。
そうだ。
大きい声なんか出す必要なんかなかったのに、大きい声が出てしまった。
大きい声を出してしまってごめんねと謝ったら、ちゃんと許してくれた。
そういうこともひとつひとつちゃんと覚えておきたいけれど、なかなか。
夜になってこの日記を書くころには、何があったかすっかり忘れてしまっているのがくやしい。
明日もきっといい日だろう。
たいきものはなもかわいいだろう。
うれしいことも楽しいこともたくさんあるだろう。
ひとつづつでもいいからちゃんと覚えておいて、明日はちゃんとした日記を書きたい。
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