わすれがたくくちをしきこと多かれど
日記っていうのは、その人の全てを物語るものではない。
書いたことがある人はわかると思うけど、その日あったことや、書きたいなと思ったことの全てを書けるわけでは全然ないのだ。
土佐日記の最後にも『忘れがたく、くちをしきことおおかれど、え尽くさず(忘れられず、残念なことも多いけれど、とても書き尽くせない)』とある。
貫之が愛娘を赴任先の土佐で失って、都に帰ってきた、そのときの文章だ。
そんな体験をした貫之ですら書き尽くせなかったのだからしかたない。
私だけじゃないのだ。
わかるのはせいぜい、どんなことに一番感動するのかとか、どんなことを一番大切に思うのかというようなこと。
余談だけど、まして、誰かの日記を通してその人の関わる人について評価しようなんていうのは馬鹿馬鹿しいことだ。
そこに書かれているのは、書いた人の思ったことであって、どんなに慎重に事実だけを取り出してなにかを見いだそうと思ってみたところで、その事実だって別の人から見たら全然違ったりするのだから。
この二、三日も色んなことがあった。
義実家から私の誕生祝いにと阿蘇王という美味しいお肉をいただいたとか。
そのお礼の電話を、初めて?ビデオ通話でやって、流行りのオンライン帰省みたいなことをしたとか。
たいきと格闘ごっこのようなことをこの二日くらいやっていて、たいきの力が本当に強くなってびっくりしたとか。
たいきにボールを買ってやって公園で一緒に遊んだのだけど、それではじめて、たいきがサッカーを全く知らないことに気づいたとか。
のはなはのはなで、部屋中にトランプやカルタのカードをぶちまけて喜んでいたとか。
レコードの棚からチャイコフスキーやベートーヴェンのシンフォニーのレコードを引っ張り出して嬉しそうにしていたとか。
それぞれ書けば一通り数百文字くらいの記事にはなるし、それぞれに感動や思いがある。
その思いを今日書かなければ、ただ、上に書いた事実の羅列だけが残って、今日の私の感動はもうすぐにでも忘れ去られてしまうことはわかってるけど。
そういうことを全部書くには人生は短すぎるわけで。
そういう中でも毎日毎日取捨選択して、というか夜までかろうじて覚えてたことをということも多いけど、書いているのがこの日記というやつだ。
今日はとにかく、たいきが『ハッピーバースデートゥーユー』を歌ってくれた。
もちろんお母さんも一緒に。
『はっぴばーしゅでーでぃや…』
のところまで来て、ドキドキした。
お母さんもなんとなく、たいきは何て言うかな、という感じでたいきの顔をのぞきこみながら歌っていた。
『おとーしゃーん』
と言われて、まあとにかく嬉しかった。
成長したなぁ。
こんなに嬉しい誕生日は初めてだ。
今日のその瞬間の喜び、幸せだけで一生十分なくらい幸せだった。
今日で大体、この日記を書き始めて2年になる。
書いた記事は600件近く。
まあ、よく続いたしよく書いた。
書かなかった膨大な事実と思いの量を思うと目が眩むけれど、しかしまあこれだけ書いてくると書いた事実と思いもそれなりのボリュームにもなっている。
もうしばらく書き続けようと思う。
ディスカッション
コメント一覧
Twitterは再開されないのですか?