家事育児を頼まれて断るのは卑怯者のすることだ
奥さんが
「ちょっと相談があるんだけどさ」
という。
なんだなんだ。
私も知っているママ友さんがいて、そのママ友さんのママ友さん(友達の友達、というやつだ)の話らしい。
名前は聞いていないけれど、仮にママ子さんとでもしておこう。
ママ子さんには子供が二人いて、多分うちと同じような、つまり上の子は幼児で、下の子は乳児で、ママ子さんは育休中。
パパ男さん(もちろんママ子さんの夫のことだ)が家事育児をしないという、まあ、ありふれたといえばありふれた話。
どうやら、ママ子さんは一人目が保育園に入った後で仕事には一度復帰していて、その時はパパ男さんもそれなりに家事育児やっていたらしい。
ところが、今は「ママ子さんは家にいるんだから」とか「俺は仕事してるから」とか言って家事育児をしなくなってしまった。
全然しないわけじゃなくて、土曜日はそれなりにやるんだけど、日曜日になると「俺は明日仕事だから」といって何もしない。
しかし、平日だって19時には家にいるらしいのだけど…
どうやったらパパ男さんに家事育児をもっとやらせることができるだろう、という相談だ。
あー。
それか。
残念ながらこの質問、今までたくさんの人にされてきたのだけど、まだいい答えは見つかっていない。
難題なのだ。
しかし、余談なのだけど、この話を聞いて、ひとつ、いいなと思ったことがある。
今までは夫が家事育児をしない奥さんたちの悩みは
「子育てが大変」
「家事が大変」
だった。
しかし今。ママ子さんも、ママ友さんも、うちの奥さんもこの話を
「夫が家事育児をしないのが大変だ」
と認識して話している。
これが、令和の常識になりつつあるのだ。
昭和では考えられなかったことだろう。
閑話休題。
奥さんはどう思うのか聞いてみた。
「どうしてもその人と一緒にいたいなら、やっぱり、ほめたりおだてたりして育てるしかないと思う。変わってくれると期待すると辛くなるから、自分から変わっていくしかないし。私だったら、そもそもそんなやつとは一緒にいないけどね(笑)」
顔が笑ってない。
それは存じておりますので大丈夫です。
しかし、私はこの意見には反対だ。
幼児の面倒を見て、乳児の世話をして、さらに夫まで育てなきゃいけないなんて。
ママ子さんの負担は増えるばかりだ。
しかも、そのやり方だと、まずは仕事を頼むところからしなきゃいけない。
頼むというか、日本語で人にものを頼むときは「やって」だとだいぶ強い言い方になるので「やってくれる?」と質問することになる。
質問すれば断られることもある。
やる理由を聞かれることもあるだろう。
それをかいくぐって、やっとパパ男さんが何かをやったとして。
今度は頼んだ手前、ママ子さんは礼まで言わなきゃいけない。
やる理由を理解してくれてありがとう、やってくれてありがという、というわけだ。
うちでももちろん私も奥さんも相手に家事を頼むことがある。
しかし、うちの奥さんは無意識に、私は意識しているけれど、いずれにせよ礼を言うのは頼まれた側なのだ。
例えば私が下の子のおむつを替えている。
そういえば上の子に食後の薬をまだ飲ませていない。
「奥さん、たいきに薬飲ませてくれる?」
「あ、そっか。ありがと。」
奥さんが下の子を抱いていて、時計をちらりと見る。
「そろそろお風呂入れてくる?」
「あ、もうそんな時間だね。ごめん。ありがと。」
これだ。
いまやらなきゃいけないことを、気づいてくれた。
考えてくれた。
言われなければ大事なことを忘れていたのだ。
だから
「ありがとう」
もし奥さんが、私から薬を飲ませてと言われて
「えー。うーん。まあ、いいよ。服ませとくよ」
とか言って、さらに服ませた後で
「服ませといてやったよ」
なんて、礼を催促するようなことをいうようなら、私は奥さんに頼まないで自分でやるようになるだろう。
私が同じことをしたら、何日か後には奥さんから
「うちから出て行ってもらえる?」
と最後の質問をもらうことになるらしい(本人に確認済み)。
まあ、人によってはそれでも頼み続ける人もいるのだろうけれど。
とにかく、命令できる相手ならともかく、そうではなく、いちいちやって当たり前のことをお願いされないとやろうとしないパートナー(と呼んでいいのかわからないけれど)がいるというのはえらく負担であることは間違いない。
何かさせるたびに
「ありがとう」
がたまっていって、つまり、なぜか、いつの間にか、頼まれてやっている方が上の立場になってしまう。
こんな不合理なことはないのだ。
家事育児をパートナーにお願いさせてる人は、その時点ですでに、やって当然のことを利用して相手にマウントしようとしている卑怯者であることは自覚しなければならない。
しかし、それだけではないのだ。
「俺は明日仕事だから」
「俺は仕事してるから」
と、やらない言い訳をする。
言われた方は、さらに言い返すのか、自分でやるのかを考えなければならない。
いずれにせよ、家事育児に関しては、放置するという選択肢はない。
育児のタスクは放置できるものではないし、家事のタスクも放置できないものが多いけど、仮に放置していたとしてもどうせ後で自分でやらなきゃならないのだ。
言い返すのはめんどくさいし、けんかになればさらにめんどくさい。
しかたないから自分でやる。
家事育児だから、たいていのことはやらなければ子供にとって何か悪影響があったり、自分たちが後で困ることになるようなことだし、何しろできないわけじゃないのだ。
ママ子さんが「明日仕事だから」に納得しようがするまいがそうなることを、パパ男さんは知っている。
だから、できることもやらずにママ子さんに押し付けるのだ。
これは大変卑怯なことだ。
なぜこんな卑怯なことが成立してしまうかというと、そもそも「やってくれる?」と質問された時点で、質問された側が上の立場になるからなのだ。
え?
と思う人も多いだろう。
しかしこれは事実だ。
質問されると「やるかやらないか」の判断をゆだねられることになる。
どんな会社でも組織でもそうだけど、判断をするのは判断をしない人よりも偉い人なのだ。
今、判断をゆだねたのはママ子さん、判断するのはパパ男さん。
だからパパ男さんの方がこの件について上の立場にいるかのような状況が発生している。
もしパパ男さんが判断をゆだねられて断ったのに、改めて「いや、やってくれないと困るからやってよ」となった場合、パパ男さんは「だったら最初からそう言えよ」と言えることになる。
やらないと困るなら、判断していいような言い方をするべきじゃなかったのだ。
つまり、ママ子さんは「やってくれる?」という言い方をしたばっかりに、「判断していいよ」という嘘をついたことになる。
それが困るから、断られても文句が言えない。
あるいは文句を言っても、弱い立場になってしまう。
それを避けるには、最初から「やれ」というしかない。
しかし、日本人として日本語を話している以上、家族に対して日常的に「やれ」なんていう言葉遣いをする人はやばい人としか言いようがない。
家事育児をパパ男さんにお願いしたいママ子さんは「やってくれる?」と聞くしかないのだ。
しかし、聞かれている方もこれを「質問されているな」と思わずに「頼まれているな」と理解して、やるかやらないかなんて判断せずに頼まれたことをやるのがマナーというものだ。
それをあえて「質問だったから判断した。それがよくないというならお前はうそつきだ」と、言葉尻をとらえて断ってしまう。
たいていの人は無意識にこれをやっているのだと思うけど、無意識であるとはいえ、頼まれていることが理解できない人はいないはずだ。
それをあえて「質問されている」と解釈しているのは事実だ。
頼む方は「質問」の形の文章でお願いするしかないのに、だ。
だから、これがまた、大変卑怯なことだと思う。
そう考えると、スキルはあるのに家事育児をしないパパ男さんに家事育児をさせるには、命令するしかない気がする。
しかし日本語の特徴なのか、日本人の特性なのか、それとも万国共通でこうなのかはわからないけれど、なかなかパートナーに命令をするというのはハードルが高い。
常識で考えれば「やってくれる?」と聞くしかなく、そうである以上、やらないことには、会話の行き掛かり上、正当性が生まれてしまう。
家事育児を頼まれて断る卑怯ものは、そのことを利用しているわけで、二重三重に卑怯なのだけど。
しかし、言葉の構造や常識を簡単には変えられない以上は、こういう人間に、させる側の精神的な負担なく家事育児をさせるのは難しいのだ。
であれば、こんな卑怯者とは、一緒に暮らすのをあきらめるしかないのかもしれない。
なぜ家事育児をしないパートナーに家事育児をさせるのが難しいのかはわかってしまった。
やはり常識から変えるしかないのか。
しかし、なかなか難しいけれど、とにかく余談のところでも言ったように、こういう人が「困った人だ」ということは、確かに世の中の常識になりつつある。
一日も早く、こういう卑怯者がいなくなることを、今は祈るしかない。
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コメント一覧
これまで意識していませんでしたが、考えてみるとわたしは、「やってもらっていい?」「してもらえない?」と言っています!そうすると「やってくれる?」よりは強めな気が…笑