ジャカルタに教わった先進国の意味
1泊4日のジャカルタ出張。
とにかくすごかった。
車の量、バイクの量。
車間距離ほぼゼロで、さらにあおり気味に進む車列の数は、明らかに道路に描かれた車線数より多い。
さらにその隙間をバイクが埋めている。
走るバイクのヘルメットが、横浜港の花火大会から帰る人々の列と同じぐらいの密度でゆれている光景ははじめてみた。
みんな同じ緑色のヘルメットで、聞いたらGlabというUberみたいな、要はスマホで呼べるバイクタクシーの運転手さんたちなのだそうだ。
ぶつかるわけじゃないし喧嘩するわけでもないからモラルはある。
しかしルールはない。
そんな感じ。
そして、驚くような高層ビルの数々。
入り口には決まって警備員がいて金属探知機がある。
その高層ビルのすぐとなりにはドアがあるのかどうかも分からない掘っ立て小屋のような家並み。
そしてその前で洗濯したり、酒を飲んだり、あるいは何やら食べ物を売っている人たち。
そういうものが混在している街。
いかにも発展途上国という風景だ。
しかし、何かが違う。
思ってたのと全然違う。
そう。
人が、全然違う。
私は人材屋だから、人を見るとき採用したいような人かそうでないかという基準を持っている。
スキルがあるとか、経歴がいいとか、そういうことと無関係に、こういう人は採用したいという部類の人たちがいる。
覇気に富み、快活で、貪欲な人。
この国は、人が、みんなすごく魅力的だ。
全員採用したい。
もちろん、仕事でジャカルタに来た日本人である私に接遇してくれるインドネシア人は英語はしゃべれるし、日本語だってしゃべれる人もいる。
エリートというやつだ。
彼らが魅力的なのは当たり前だ。
でもそこじゃない。
町を歩いているビジネスマン風の人もそうじゃない風の人も、Glabの運転手さんたちも、ビルの警備員さんたちも、飲食店の店員さんたちも、みんな何か、生き生きとしていて、目の輝きが全然違うのだ。
インドネシアの人口ピラミッドを調べてみた。
釣鐘型に近づきつつあるものの、まだまだピラミッド型に近い。
裾野が広がった形になっていないのは、医療が発達して子供が死ななくなったからであって、少子化という雰囲気ではない。
そして、よく見ると25歳とか30歳とか、5歳おきに人口が多い。
これは、もちろん事実ではなくて、調査をしたときにあんまりみんな年齢をちゃんと覚えていないので、大体ここっていう年齢を言う人が一杯いるのだ。
先進国ではこんなことは絶対にありえない。
発展途上国の統計でよく見られる傾向だ。
ちなみに、途上国でも干支が浸透している国ではこの現象は見られない。
まあ、つまり発展途上国なのだ。
でも私は発展途上国が発展途上国であることの意味は、わかっていなかった。
発展途上国というのはつまり、急成長しているということなのだ。
急角度の成長。
強いエネルギー。
そこには、そのエネルギーの発信源でもありながら、そのエネルギーに最も近くで感化されてさらに燃え上がる若者たちがいる。
相乗効果というやつだ。
未来のことは考えてもいいし考えなくてもいい。
山頂まで後何メートルと考えながら走る登山者もいれば、ただひたすら足を動かして前に進む登山者もいるだろう。
ただ、目の前にある坂だか壁だかを一生懸命上っていれば上に行けることだけははっきりしている。
だから彼らは上るのだ。
嬉々として。
そのエネルギーの塊が、発展途上国というやつなのだ。
日本は先進国だと思っていた。
でもそれは違った。
かつて、一生懸命前に進んでいたことは間違いない。
しかし、それは言い方を変えれば老化しているということであって、足腰は痛いし目もよく見えないし、力も出ない。
いま、若いエネルギーにあふれて溌剌としている若者に自慢するようなことじゃあない。
先進国というから、グラフなり道なりで、日本がいる場所はインドネシアよりも右のほう、前のほうなんだろうと思っていた。
もはや進んでるスピードは全然違うし、エネルギーも全然ちがう。
それでもまだ日本は前にいて、いつ追いつかれるか、みたいな話なら日本は先進国だろう。
残念だけど、今は21世紀。
20世紀に日本が目指して進んだ目標と、21世紀にみんなが目指す目標は全然違う。
日本は老いた足腰でそれを目指して歩いている。
21世紀の発展途上国は、カモシカのような足でぐんぐんそれに向かって走っていく。
確かに彼らは発展途上国だ。
英語で言えばDevelopping Country。
発展している最中の国だ。
走っているし、進んでいるし、成長しているのだ。
そうじゃない国を先進国だの発展済み国だの、なんと日本語で呼んでもいい。
英語ではDeveloped Countryという。
しかし、別の言い方をすればNon Developping Countryだ。
もはや発展してない国なのだ。
走れない、進めない、成長もしない。
そのことが、ジャカルタの人たちの顔を見ていてよく分かった。
私は日本人としてどう生きたいのか。
そして子供をどう育てたいのか。
何をふたりに提供できるのか。
どうしたいのか。
そこまでまだ考えれらていないけれど。
おそらくそれを考える上で、私にとって大きな事件だった。

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