「のはな」に込めた思い

お父さんであること

野に咲く花のようにを聞いている。

今も愛されるダ・カーポの名曲。

そういえばこの曲は、たいきの夜泣きが一番大変だった頃によく寝かしつけで聞いていた歌。

名付けの時には意識しなかったけど、大好きな歌だ。


ナザレのイエスは「明日のことを思い煩うな」と言った。(マタイによる福音書、6・24-34)

空を飛ぶ鳥、そして野に咲く花を見よ。

野に咲く花はあくせく働いたりしない。

それでも、かの栄華を極めたソロモン王でさえ、この野に咲く花ひとつほどにも着飾ってはいなかった。

神様の愛はこのようにあまねく注がれる。

だから、明日着るもの、明日食べるものの心配などする必要はない。

明日のことは明日考えればいい。

その日の苦労は、その日だけで十分である、と。


野に咲く花は美しい。

名前があろうがなかろうが、いいのだ。

そこにあるだけで美しいのだから。

キリストに言わせれば「働きもせず、紡ぎもしない」けれども、「ソロモン王よりも着飾っている」ということになる。

明日のことを思い煩うこともなく、何を着ようかどう着飾ろうかなどと悩むこともない。

それは、神様に愛されているからだと。


野の花の美しさは、ありのままの美しさだ。

誰かに媚びることもない。

何かと競うこともない。

比較されることも、点数をつけられることもない。

ただ、ありのままにいて、それが美しい。

それは、美しいというか、そのこと自体が無条件で受け入れられるし、野の花もそのことを無条件で受け入れているということだ。

私はこの子が、誰かのために着飾らなければならないとか、何かのために美しくならなければならないとか、そういうことを考えないで生きられたらいいなと思う。

明日のことも思い煩わず、着るもの、食べるものの心配もせずに、そうやって自然体で、別の言い方をすれば、自分の生きたいように、自分のあるがままの気持ちにしたがって生きてくれたらいい。

ウーマンリブだ、ジェンダーだと肩肘をはる必要もなく女性が、というか、全ての人が、自分の存在をそんな風に肯定的にとらえて生きられたら幸せじゃないか。

全ての女性、全ての人がそんな風に生きられるわけではないことはわかっている。

それは、本人の意志や意識もあるし、周りの人間がどういう風に接するのかということも大いに関係してくる。


私はこの子を育てるときに、ああいうものを身に付けた方がいいとか、こういう風なものを学んだ方がいいんじゃないかとか、いろんなことを考えてしまうに違いない。

でも、この名前を呼ぶたびに私は思い出す。

そもそもこの子はありのままの姿で、ソロモン王よりも美しいのだと。

美しいというのは、見た目の話ではない。

見た目のことも含むけれど、例えば数式でも、論理でも、行為でも、心でも、色や形を持たないものが美しいと表現されることがある。

それはつまり、調和的であることであったり、完成された姿であることであったり、正しいという意味を持つこともある。

私がいう「美しい」はそういう意味だ。

野の花に人の手を加えたところで、野の花以上の美しさは生まれない。

野の花であって、バラだの百合だのと名前があるわけではない。

いや、なにか名前はあるだろう。

しかし自分が何なのかというようなことは、人につけられた名前で決められる必要はないし、まして私が決めることでもないのだ。

自分にどんな花が咲くのか、どんな種を作るのか。

それは自分で見つければいいし、咲いてから気づくくらいでちょうどいい。

なんであれ、そこにありのままの姿で咲いているのが一番美しいのだから。

私なぞが余計なことをすれば美しさが損なわれるばかりか、孟子に語られる稲の生育が悪いと悩んで稲を引っ張って伸ばそうとして枯らしてしまってのたという「助長」のエピソードの農夫のように、からしてしまうこともあるだろう。

だから、私は、私の気持ちや経験から来る予測や、欲求のためにこの子に何かを押し付けたり、無理に伸ばそうとしたりしてはいけないのだ。

そのことを私に戒めた名前でもある。


願わくばこの子が神様に愛されて、思うままに自由に、何かを悩み煩うこともなく、幸せな人生を送れますように。

その邪魔をせず、できれば少しでもその助けになるような父親になりたい。

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