子供が生まれて人生観が変わったこと

お父さんであること

子供が生まれて、人生観が変わった。

どう変わったということは置いておいて、とにかくものすごく変わった。


子供の頃は夏休みって無限に続くんじゃないかと思うくらい長かった。

日々成長するし、身長だって毎年10センチ伸びていたこの時期。

なんというか、上が見えないくらい急な坂道を登っているような、そんな感覚だったんだと思う。

私は41才だけど、この年になると仕事のことは数ヵ月先のことまで考えているのは当たり前。

来年や再来年の話をしていることだって全然珍しくない。

3年後の自分がどうなっているかと考えると、多分今と大して変わらないだろうと思ったし、5年前の自分も今と大して変わらなかったと思うし。

奥さんと結婚したときだってそうだ。

この人とずっと一緒にいるんだな、と。

変わらず共に過ごしていけたらいいな、なんていう感覚。

なんというか、大人になってからの人生は、平坦な道を歩いている感じだ。

なんとなく、これがずっと続くんだろうな、という感覚。


それが子供が生まれて、違うことがわかった。

この子は毎日成長していて、もう0才の頃のたいきには会えないし、1才のころのたいきはもういない。

ちゃんと時間は流れているのだ。

しかもすごい勢いで。

そして、この子がちゃんとした大人になった頃には私は老人になっていて、この子が老人になる頃には私はもういないのだ。

子供の年齢を通して、自分のこれからの加齢と、いずれ死ぬのだということが、リアルに迫ってきた。

死ぬのが怖いとかそういうことではなくて、とにかくいずれ人生は終わりが来る、その旅路の途中なのだ、ということが判明したというか。

そんな感じ。


そして、自分の人生なんか好きなように生きればいいし、他人の人生なんか私の責任ではないから好きにしてくれたらいいけど、子供の人生は一旦私たち親にかかっているということ。

失敗しちゃいけないというプレッシャーと思い。

2才なら2才、3才なら3才にしかしてやれないことがあって。

いや、今日はもう二度と来なくて、明日はもう今日じゃないんだということ。

今日やってしまったことはもう取り消せないし、今日やれなかったことも二度と取り返せない。

つまりそれは、一度でもたいきをぶてば私は『子供を殴った父親』になってしまうということだし、そして、たいきに哺乳瓶でミルクをやることはもうないのかもしれないし、おむつをひょっとしたらもう来月には変えてやれないかもしれないということ。

たいきはもう『がっこ』とは言わないし、今はうまく言えるようになった『だっこ』だって、いってくれなくなる日が必ず来るということ。

そういうことがありありとわかってしまった。


そういう中で、あらためて大人になった私が、親である私が、仕事をしている私が、今日やりたいことはなんだろうと考える。

なにを優先するのかは人にもよるだろうし私だって単純に全てをたいきとの時間に当てるわけではない。

でも、今しかない時間を生きているたいきと、その隣にいる自分。

ものすごいスピードで成長する彼が成人する頃には老境に入り、やがていずれ終わるこの人生。

その中でものごとの優先順位の組み立ての根拠が変わったことは明確に感じるのだ。


私は、子供のために生まれ、子供のために今までの私の成長があり、子供のためにこれからの人生があるんだなぁと思う。

それは、私にとっては滅私ということではなくて、そうあることが私そのものであり私の一番の喜びだということだ。

他の人もそうじゃなきゃいけないとは思わないし、善悪でいったら、これが善であるかもわからない。

ただ、改めて、私は今、幸せだ。

そしてこの幸せは、子供がいなくても幸せだったころの私には想像もできない質と、圧倒的な大きさだ。

こんな幸せをくれた奥さんとたいきに、感謝してもしきれない。


そんな話を、久しぶりに飲んだ酒のつまみにしたよ、という話。

初めての包丁はばーばと。義実家での近影。

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