子供の正しい泣かせ方を考え続けている

子育てを考える

丁度3年ぐらい前に子供が泣く理由(1ヶ月目ぐらい)を考えてみたという記事を書いた。

当時の私は

まず、泣く理由を考えた理由を述べたいと思う。それは、三つある。

まず第一に、泣いている子供に「どうしたの~」「大丈夫だよ~」「なきやんで~」等々と声がけをしたくなる自分に、強い違和感を覚えたことにある。

そもそも、親が困るような行動をする子供に対して「なぜ?」と聞くのが私はいやだなぁと思う。

(中略)

なぜ?と問いかけるとどうなるか。子供が泣く、泣き止まない、質問にも答えてくれない、という三重苦を味わうことになる。なぜ?という問いかけは、基本的に泣いている子供と相対し、敵対する関係性を自然に築いてしまう。これがストレスとなり、いつしか自分をせめる形で悩んだり病気になったり、あるいは子供を攻める形で暴力や虐待に繋がっていくのではないか。もちろん共感するだけではダメで、解決できる理由がある場合は解決してあげたいとは思う。

なぜ子供が泣くのかを考えた第二の理由はそれ。

(中略)

第三の理由は、そもそも解決できない理由で泣いてる場合があるのではないかと疑ったということ。解決できない理由で泣いている人を癒すのは、温もりであり、受容と共感に他ならない。あやす方は、泣き止まない子供を見て悩む必要はなく、思う存分気がすむまで泣くのを、隣にいて(というかだっこして)共感し続けてあげればいいんじゃないかと思う

なんて考えていたみたい。

真面目だ。

この記事を書いたのは2016年8月24日。

この雑記帳を本格的に始める前の記事だ。

このころまだたいきと奥さんは熊本にいて、私はまだ生まれた日と翌日の二日しかたいきと会っていない。

多分毎日泣いているたいきに向き合って大変な思いをしているであろう奥さんが、少しでも気が楽になったらいいなと思って書いた記事だった。

既に、泣くことに向き合いすぎて煮詰まると虐待に繋がるんじゃないかとか、受容や共感が大事なんじゃないかとか、今と変わらないことを考えていたことが分かる。

泣きたいなら泣かせておこう、ということでもある。


そして1年ぐらい前、つまり前の記事から2年後に、子供は泣かせなきゃいけなかったという記事を書いた。

このときは、風呂場で転んだたいきに私が矢継ぎ早に共感の言葉を投げかけて、泣く暇を与えなかったという反省の記事だった。

どうも奥さんが言うには、こういうときの私は、たいきへの共感が早すぎるらしい。

ちゃんと自分の気持ちを泣くことで吐き出し、それを受け止めてあげてから共感してやらなければいけなかったと思う。

大人相手でもそうだ。

ちゃんと話を最後まで聞いてもらって、それから共感されて初めて癒される。

まだ言葉少ない子供だからこそ、全力で大きな声で気持ちを私に訴える。

勝手に気持ちを忖度してなだめたりするよりも、その気持ちを受け止めてあげることの方がはるかに大切だろう。

勝手に察して先回りするのは、いわゆる過干渉というやつだ。過干渉が子供にとってよくないのは言うまでもない。

ここでも共感がキーワードになっている。

しかし、受容(気持ちを受け止めてあげる)ができていなかったということらしい。

ちゃんと受容して、共感することで、ちゃんと泣かせてあげたいという気持ちのようだ。


また一年たって、先日書いた記事が『face to face』『side by side』だ。

face to faceで説得していたとき、たいきは私に気持ちをわかってほしくて私の顔を見ていたのだ。

私が意識してside by sideのコミュニケーションを取り入れて以降は、気持ちに共感された実感が持てるから、たいきは私の顔を見ずに私の体に触れながら泣くようになったのだ。

話す相手との距離は、そのまま安心の度合いを意味する。

体に触れるのは一番安心している証拠だ。

お風呂にはいるのも、保育園に行くのも、相変わらず嫌がるときは嫌がる。

お菓子が食べたいと言って泣くのも日常茶飯事だ。

しかしここ数日は、その時間がとても短い。

共感されることで、納得して気持ちを切り替えることがとても容易になったようだ。

あのツイートがなければ相変わらず私は優しい声で、丁寧に、でも決して共感することなくたいきと話をし続けただろう。

とてもありがたい指摘だった。

今度は受容はできていたけど、共感ができていなかったらしい。

やれやれ。

一向に進歩しないというか。

未熟な父親で、たいきも大変だろうなぁと思う。

申し訳ないばかりだ。


熊本での最終日、私の帰京の見送りのための身支度をしていたとき、たいきは口をおもちゃで隠したりしておどけたようなふりをしながら、とても小さな声で何かを言った。

何回か言っても私が聞き取れないのに業を煮やして、ようやく大きい声で

「たいちゃん、きょうりゅうはくぶちゅかんにいきたい」

と言った。

どうしようもない。

「恐竜博物館に行きたいね。たいきは恐竜博物館大好きだもんね。ごめんね。今日は行けないんだ。」

というようなことをゆっくり言われて、たいきは泣いた。


泣いたのはいいのだけど、私ははたと困ってしまった。

なんでたいきは「恐竜博物館に行きたい」とはっきり大きな声で言わなかったのだろう。

「怒られる」と思ったわけはないけど、否定されると思って恐る恐る言ったのだろうか。

そうだとしたらいままでの受容だの共感だののフィードバックは何か見直さなきゃいけないんじゃないか。

そういえば、たいきは抱っこして欲しいときも

「あしがいたくなっちゃった」

とか

「あるけなくなっちゃった」

とか言うことがある。

そういえば

ディズニーランドに行こうとしてたのを動物園に変更したとき

「たいちゃん、しゅいじょくかんにいきたくなっちゃった(´・ω・)」

という言い方だった。

ジュースを飲みたいときも

「おとーしゃん、こっちにきて。」

といってキッチン(というか冷蔵庫)のところに私を連れて行くことからはじめたりすることも多い。


たいきはあんまりストレートに希望を言わないのだ。

いや、水が呑みたいときは「みじゅ!」というし、動画が見たいときは「なんかみる!」といってiPadに駆け寄るし、抱っこして欲しい時だってもちろん「だっこ!」ということはもちろんある。

ただ、ストレートに言わないことも多い。

頭を使って賢く交渉しているようでもあるし、どこか引っ込み思案なところがあるのかもしれないとも思う。

私の態度や接し方に、何か変えるべきことがあるのか。

といって、どんなことが正解なのかのアイディアは今のところまったくない。


子供の泣かせ方、つまり泣くことへの向き合い方をもう一度しっかりと考え直すべきなのか。

それとも今のままでいくのか。

「きょうりゅうはくぶちゅかん、いきたかった~」

とさめざめと泣くたいきを見ながら、考え込んだ。

日々の積み重ねの結果なのか。

それとも、個性、というやつか。

いいのか。

悪いのか。

それともいいも悪いもないのか。

いやはや、難しい。

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