横浜とは何なのか(横浜三塔とエースの塔の話)

バラエティ

横浜の人って「神奈川出身」って言わないよね。

住所書くときも「県」から書かないし。

どこから来たの?って言われても「横浜」って言う。

「ああ、神奈川ね」といわれると「いや、横浜」。

なぜなのか。

横浜の人は、横浜に愛着を持っている。

なぜそんなに「横浜」なのか。

でもその理由を知っている横浜の人は意外と少ない。

そもそも「横浜」ってなんなのか。

横浜の人も知らない、「横浜」の話を、少しだけしようと思う。


横浜とはそもそも港町なのだ

横浜というのはそもそもは何もなかったところで、アメリカの要請で港として開かれた町だ。

それまでは『横浜村』という小さな漁村だったらしい。

森林太郎(鴎外)が作詞した『横浜市歌』にも

昔思えば苫屋の煙

ちらりほらりと立てりしところ

と歌われている通り、本当に何もなかったのだ。

ところが、日本一の大都市東京の外港として開かれたから話は少しややこしくなった。


横浜港は日本の発展の『要』だった

今の横浜市は広いのだけど、そもそもは横浜というのは横浜港のことなのだということは押さえておいてほしい。

日本から輸出するもの、日本に輸入されるものは全てこの『港』を通るのだ。

日本に港の数は多くあっても、海外に向けて開かれた港は、横浜が港として開かれたとき(1959年だ)は長崎と函館と、そしてこの横浜だけだった。

中でも東京の外港として設置された日本の中心にあるこの横浜港。

明治時代に日本が発展する礎となった富国強兵政策の根幹である茶や絹糸の輸出は横浜港を通して行われたのた。

逆に、石炭や石油、あるいは製造業を支えた海外の最先端の機械や兵器も横浜港を通して日本に持ち込まれた。

飛行機の無い時代に日本に来た外国人も横浜経由で日本に入った。

喜劇王チャップリンだって、今は山下公園に係留されている氷川丸に乗って、はるばるシアトルから横浜に来たし、映画「80日間世界一周」でも主人公は横浜を訪れている。

シアトルの港にも「昔ここに横浜から船が来たぜ」っていう石碑があったりする。


横浜を象徴する建物「横浜三塔」

横浜には『横浜三塔』というのがあって

・キングの塔(神奈川県庁)

・クイーンの塔(横浜税関)

・ジャックの塔(横浜開港記念会館)

と呼ばれている。

威厳たっぷりのキングの塔(神奈川県庁)
気品に溢れるクイーンの塔(横浜税関)
華麗そのもののジャックの塔(横浜開港記念会館)

いずれも横浜市中区の地下鉄みなとみらい線の「日本大通駅」から徒歩3分以内のところに集まっている。

この三つの塔はそれぞれに美しいので是非見に来てほしいのだけど、さらに、この三つの塔をいっぺんに見られるスポットというのもあって、この三つの塔を同時に見ることが出来た人は幸せになれるということになっている。

今でも、山下公園の程近く、「大桟橋」から三つ同時に見られるスポットがあったりして、ひそかな人気スポットのひとつになっている。

ただし、これはおそらくそういうことではない。

横浜駅東口から出ている「シーバス」という船に乗って山下公園に着くとよくわかる。

海から見ると、この横浜三塔が実にきれいに見えるのだ。

つまりこの「横浜三塔を同時に見ると幸せになれる」というのは、横浜港を船から見る人はみんな幸せになれるよ、という伝説なのだとおもう。

この中にはもちろん商機を夢見て海外から来た商人達もいたし、世界を目指して船出した若者達もいたに違いない。

戦争で夢破れて大陸からほうほうの体で全てを失って逃げ帰ってきた人達もいたし、あるいは戦地に仲間を残して帰って来た兵士達もいた。

横浜港って、そういう場所だ。


「横浜三塔」で「クイーンの塔」が一番高い

この横浜三塔なのだけど、それぞれに歴史があって、一番古いのはジャックの塔(開港記念会館)。

ついで、キングの塔(神奈川県庁)。

最期にできたのがクイーンの塔(横浜税関)となっている。

それぞれの趣があって美しいのだけど、背の高さで言うとクイーンの塔が一番高い。

これには伝説があって、設計当初、クイーンの塔は隣のキングの塔より2メートル低く設計されていたらしい。

それを見た当時の税関長(第22代税関長 金子隆三)が「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎」が神奈川県庁ごときより背が低いのはけしからんということで設計しなおさせ、逆にキングの塔よりも2メートル高く設計しなおさせたというのだ。

「日本の表玄関たる国際港横浜の税関」という矜持はなかなかなものだと思うけれど、当時はまだ東京税関だって横浜税関の分署だった。

あくまで日本の貿易産業の中心地は横浜だったのだ。


『エースの塔』も忘れてはいけない

ここでもうひとつ忘れちゃいけないのが「エースの塔」の存在だ。

横浜三塔の程近く。

今は神奈川県立歴史博物館となっていて、誰も訪れることが無いといって過言ではない建物がある。

しかし、この建物が、日本の経済史上、最も重要な建物のひとつだったことはあまり知られていない。

この建物は元々は「横浜正金銀行」という銀行の本店だった。

「横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう)」なんて、ローカルっぽい名前。

しかしこの銀行が日本で一番大事な銀行の一つだったことは、たとえば多くの日銀総裁が横浜正金銀行出身であったり、その中には内閣総理大臣(高橋是清)や大蔵大臣(井上準之助)を務めたものもいることでもわかるというものだ。


横浜正金銀行とは何なのか

簡単に言うと、横浜正金銀行というのは、貿易都市であった横浜において、外国の紙幣や貨幣と日本円との取引を行うために作られた銀行で、こういう銀行を為替銀行なんて呼んだりする。

かっこよく言えば日本の「国際金融」を一手に引き受けた銀行だったのだ。

日本が戦争をするといえば海外から資金調達のために奔走もしたし、植民地支配のためには現地で流通する紙幣(日本銀行券ならぬ、横浜正金銀行券だ)の発行までした。(*筆者は当時の横浜正金銀行の役割を説明しているだけであって日本の帝国主義を礼賛する意図はありません)

日本が列強に加わった1920年代などで言えば、世界三大為替銀行の一つとしてHSBC(香港上海銀行)、チャータードマーカンタイル銀行に並ぶ銀行だった、らしい。

よくわからないけどなんかすごそうではないか。

ちなみに、当時港町であった神戸、門司、長崎、小樽にはもちろん支店があり、さらに東京、京都、大連、北京、ハルビン、青島、上海、、天津、ハワイ、ウラジオストクにまで支店があった。

日本経済をまわすために日本各地に国内向けの銀行があり、おそらくその中でも一番重要だったのは三井とか三菱とか住友とか、そういう財閥系の銀行だった。

一方で世界経済の中での日本を支えた銀行という意味で、紙幣の発行まで行っていたこの銀行は日本銀行に並ぶ日本で最も重要な銀行だったのだ。

そのことがよくわかるのが、横浜正金銀行の東京支店だ。

今は三菱UFJ銀行日本橋支店と呼ばれているその場所。

隣が、日本銀行金融研究所。

そして目の前はもちろん、日本銀行だ。

日本最初のホットライン(直通の専用電話回線)は、日本銀行と横浜正金銀行本店を結ぶものだったと言われている。


横浜正金銀行は第二次世界大戦で政府の戦費調達をまかなったとされてGHQによって解体されて、東京銀行に衣替えさせられた。

日本を占領したマッカーサーが最初の宿泊地としたのが横浜、山下公園の目の前の「ホテル・ニューグランド」。

マッカーサーは日本の帝国主義と経済発展を支えた金融機関に「横浜」の名前をこれ以上名乗ることを許さなかった、と考えるのは考えすぎだろうか。

せっかく横浜に観光に来るのであれば、一度ぐらいは見に来て欲しいのだ。

山下公園から徒歩10分ぐらい。

横浜三塔から5分ぐらいだ。

虚栄ではあったのかもしれないけど、アジアの小国から列強に並んだと豪語したかつての日本の栄光を、金融で支えた横浜正金銀行の本店「エースの塔」を。


お分かりいただけただろうか。

横浜。

こんなことは知らない人が多いかもしれないけど、こういう背景が、「横浜」にはあって、だから多分、横浜の人たちはずっと自分たちを「横浜」の人だと思ってきた。

その名残が、今も横浜の人たちの中に残っているのだと思う。

別に神奈川が嫌いなわけじゃない。

神奈川にはいいところが一杯ある。

そこはそこで地元自慢したらいいし、私は鎌倉も茅ヶ崎も小田原も箱根もそれぞれ大好きだ。

ただ、それぞれ違う場所なので私は「横浜で育った」って言うし「横浜から来ました」って言うのだ。

関東大震災で発生した大量の瓦礫で埋め立てられた山下公園は横浜の復興と繁栄の象徴

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