子供を叩くときに、忘れてはいけないこと(心愛ちゃんが教えてくれたこと)
なんの抵抗もできない心愛ちゃんという小さな女の子を、自らの快楽のために暴行し続け、挙げ句に一方的になぶり殺しにした41歳の男が
「生活態度のしつけのためにやった。悪いことをしたとは思っていない」
とうそぶいているという。
本当のくずというのは、こういう人間のことを言う。
私は、そう思う。
共感してくれる人は、多いのではないかと思う。
しかし実際、今もこの日本中でしつけと称する暴力が今日も横行している。
怒鳴り付ける。
ぶつ。
ける。
つねる。
暗い部屋に閉じ込める。
外に放り出す。
子供はないたり謝ったりして、言うことを聞くようになる。
暴力を振るうのはさぞかし気持ちのいいことだろう。
イライラの原因を痛め付けただけでイライラしている気持ちは吹き飛ぶものだ。
社会生活を営むなかで、そんな快感を味わう機会は、チンピラでもない限りほとんどない。
おまけにイライラの原因である子供は屈服してイライラの原因である行動をやめる。
痛快この上ないに違いない。
さらに、だ。
そして、それが正しいことであり、子供のためでもある、ということになれば、た。
こんなことは、もう、やめられるわけはない。
体にいい麻薬みたいなものだ。
やめるどころか、暴力は日常となり、エスカレートするばかりだろう。
なにしろ、子供のためなのだ。
強ければ強いほどいいに決まっている。
心愛ちゃんを殺した男は、心愛ちゃんを殺すつもりではなかったはずだ。
「子供のためだ」
というキチガイじみた考えを頭に張り付かせて、なんの抵抗もできない可愛そうな女の子に暴力をふるい続けて、たまたまそれが長時間におよび、快感のあまりそれが止まらなくなっていただけなのだ。
何も特殊なことはない。
異常なことでもない。
ごく、当たり前のことだ。
一度『無抵抗の人間に正当に暴力を振るう』という快感にとりつかれた人間なら、つまり、しつけのために一度でも子供に手をあげたことがある人間なら、誰でもそうなる可能性がある。
しつけと称する暴力は、ただの暴力であって、何も正しいことではない。
美しくもなんともない。
子供が良くないことをしているとき、教えたければ何度でも言い聞かせればいいし、やめさせたければ手をつかめばいい。
わかるまで何度でもそうすればいい。
言っても手をつかんでもわからない子供は、どうせ叩かれてもわかるまい。
手をあげるのは教育的な効果などあるわけもなく、叩いたがわが感情的になっているから以外に、理由はない。
違うと思うなら、一度叩かれてみるといい。
叩かれて自分が反省するか、ただ単に嫌な気持ちになるか、試してみればいいのだ。
子供に暴力を振るう人は全員、自分の子供が心愛ちゃんと同じ目に遭っていることを自覚しなければならない。
自分が、端から見ればこのキチガイにしか思えない男と、全く同じ顔で子供を殴っている(叩いているのではない!)ことを知らなければならない。
殺した人間はみんな
「殺すつもりはなかった」
と言うし、殴った人間はみんな
「殺したわけじゃない」
と言う。
叩いた人間は
「殴ったわけじゃない」
「怪我をさせたわけじゃない」
等と下らないことを言うのだ。
怪我さえしなければいいのか。
それなら冷たい水でもかけるか。
そうやって言い訳に言い訳を重ねて、自分を正当化して正当化して、とうとう彼は心愛ちゃんを殺したのだ。
心愛ちゃんを殺したのは『暴力』じゃない。
子供に対する『しつけ』と言う名前の暴力が、正当化され、時に美化すらされるというこの文化が、心愛ちゃんを殺したのだ。
ふとしたことで、つい、子供を叩いてしまうことはあるだろう。
とても残念だけど、あるだろう。
私がたいきを叩くことはきっとないけれど、そういう強い衝動にかられることはある。
私の気持ちの1ミリ先に、暴力はある。
その1ミリを越えてしまう人がいることは、もちろん理解できる。
結果として暴力を振るうのか振るわないのかは大きく違うけど、私たちは今も同じところにいる。
だから、これだけは伝えたい。
暴力を振るったことを、絶対に正当化しないでほしい。
叩いたのではなくて、殴ったのだと思ってほしい。
自分を責めてほしい。
子供のためではなくて、しつけのためではなくて、自分のためにやったのだと、自分にいつも言い聞かせてほしい。
そうすればあなたの暴力は、エスカレートしないだろうし、いつか、いや、すぐにでもやめられるかもしれない。
いや、きっとやめられる。
やめなければならないことは、わかっているはずだ。
あなたの暴力をとめられるのは、あなたしかいない。
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