『いい子だね』といわないこと

子育てを考える

たいきが生まれる2年くらい前に流行った映画があって、普段は映画なんか見ないんだけど、当時珍しく映画館に奥さんと見に行った。

そのときはなんか、あんまりいい印象は持たなかったんだけど、なぜかDVDまで買って、そのあとどんどんはまってしまって、奥さんが出産のために里帰りしてるころ毎晩のように見ていた。

簡単にいうとある姉妹の話。

お姉ちゃんは色々事情があったにせよ比較的厳しく育てられて、いい子ちゃんをやらなきゃいけなくて、妹の方はそんなこと露知らず比較的奔放な性格で。

両親は数年前に亡くなっているんだけど、お姉ちゃんは両親に言われたことを忠実に守って生きている。

ところがあることをきっかけにお姉ちゃんがぶちギレて「もーえーわ!」ってなって大騒動になる。

というような話し。


この、お姉ちゃんがぶちギレて「もーえーわ!」ってなるときに歌う歌に

Be the good girl, you always have to be!

(いい子でいなさい、いつでもだ)

という、親に言われていた台詞が出てくる。そして彼女はもうそんな自分とは訣別すると歌う。

No right, no wrong, no rules for me.

I’m free!

(善も悪もない、なんの規則もない。私は自由よ!)

まるで、空と風と一緒になったような自由を感じ、自分のいたいところに、自分のありたいようにいようと宣言する。

そして

Past is in the past!

That perfect girl is gone!

(過去のことは過去のこと。)

(あの「完璧な女の子」はもういない)

と、親の教えを守っていた自分に別れを告げる。

私はこの歌が好きすぎて、一時はこの歌の歌詞から名前をつけようかと本気で考えたくらい。


人並みにテーブルマナーだの言葉遣いだのは覚えた方がいいし「礼儀」と呼ばれる作法くらいは知っていてもいい。

でも実は「礼(形式的な作法)」を学ぶことを教える儒教の教えにはもうひとつ大切な教えがあって、それは「義」について学ぶことが大切だということ。

どうも儒教といっても孔子の教えが礼に寄っていて、それを明治時代だかの軍人だのが権威を振りかざすために、縦社会を固定化すべく強調したものだから、日本の教育は礼を重んじる傾向が強い。

でも、そればっかり言っていても一向に人間としての成長には繋がらないし、自己実現の足しにもならない。

「礼を学ぶ」というのは、語弊を恐れず言えば、しちゃいけないことを学ぶと共に、やっていいことの正しいやり方(作法)を学ぶこと。

「義を学ぶ」というのは、何がしていいことで、何がしなければならないことなのかを知るということ。

「義」を身に付けるには、まず子供自身が正しく、つまりひとりの人間として尊重されて扱われる必要がある。

子供が最大限尊重され、人として正しく扱われることで、人にもそれを返すことを覚えることができる。

形式的なことを学ぶのはそのずっと後で十分だ。

形式ばかりを押し付けると、このお姉ちゃんみたいにそれを打ち破って自分の人生を生きるという、当たり前のことを手に入れるのにえらい苦労をする。


確かに、礼から身につければ「いい子だね」と言われる。しかしその言葉がさらに子供を束縛して、「いい子」を演じ続けなきゃいけないはめになるかもしれない。

そういう子育ても立派なものだと思うけど、わたしはそんなものをたいきに押し付けたいとは思わない。

ずっと大きくなった後で爆発されても面倒だし、その時には誰よりも本人が苦しむことになる。


だから私は「いい子だね」とは言わない。

その代わりに、嬉しいときには「ありがとう」はたくさん言うことにしている。

「ありがとう」も呪いの言葉になってしまうのかは、よく分からない。

でも、人に嬉しいことをされたときに「えらいね」「いい人ですね」なんていうのは、なんか明らかに違和感がある。

やっぱり大人同士なら「ありがとう」だ。

だから、たいきにも「ありがとう」というのは私にとっては自然なことだ。

これが、たいきをひとりの人間として対等に扱う一番基礎的なことで、一歩目だと思っている。


たいきは最近、よく「ありがとう」を言うようになった。

うれしいけれど、これでいいのかなぁ。

「嬉しいときにはお礼を言う」という形があっさり身に付いてしまった。

ちょっと複雑な気持ちでそれを聞いている。

どうしてもこの映画がなにかわからなくて気になる方はこちら

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