「ぼくは絶対子供を抱っこしない」というお父さんに感動した話
知人で、たいきよりもう少し大きな2人のお子さんを持つお父さんと話をした。
「ぼくは絶対に子供を抱っこしないです。子供が歩けるようになって以来、抱っこはしてない。」
はあ。
なんの自慢なんだろう。
「毎朝幼稚園に子供を連れていきますよね。あと、お迎えもよくいきます」
そうなんですね。
「子供が、今の身長、今の目線でしかみられない世界がある。ぼくらはもう、その目線に戻ることはできない。彼らが今の目線で見られるものを見せてやらないなんて、もったいないじゃないですか。」
え。
。
。
。
目から鱗。
「だから、ぼくは絶対に抱っこしない。少し先を歩いて、座り込んだり付いて来なかったりしたら何分でも待ちます。いくらでも時間はあるんです。いくらでも寄り道できるように、歩いて10分の幼稚園に送るために30分以上早く家を出てます。」
「道端で『早くしなさい』なんて言ってる親を見ることがあるけど、早くしなきゃいけなかったのは親の方だと思う。子供は早くできないし、子供にとっては早く行くメリットもないんだから、早くするはずがない。そもそもどこに行こうとしてるのかも、すぐ忘れたりする。」
「だから、それを想定して早く支度をして早く家を出ればいいんです。」
まあ、いろんな事情で早く出るのが難しいとか、できなかったとか、そういうことがあることは彼ももちろん理解している。子育て歴はわたしより長いのだ。
それでもそれは大人の事情じゃないか、という。大人の事情でルールを押し付けるのは面白くない、とも。これはわたしも以前の記事(「どうでもいいルールを決めることについて」)で似たようなことを書いたことがあるのでよくわかる。
でもまあ、そこはそれ。
それよりもこれ。
「今しか見えないものを見せないのはもったいない」
これは、かっこいい。
というわけで、さっそくたいきを歩かせてみた。
保育園からの帰り道。
最近はずっと抱っこ。
「今日は歩いてみない?なんでもさわりにいっていいよ。」
今日はいくらでも待つ覚悟だ。
たいきは少し考えてうなずいた。
おお。
意外とあっさりだ。
もう暗くなった道を街灯と月が照らす。
横浜の住宅街の夜は結構明るくて、道の見通しもいい。
たいきは、その道をどてどてと走り出した。
どんどん、どんどん走って行く。
後ろ姿を少しだけ早足で追いかける。
と、たいきが正面から転んだ。
きれいに受け身を取っていて、顔は打っていない。
無言で立ち上がり、また何もなかったように走り出す。
100メートルほど走って、少し車の通る一通の道に出た。
ここは時々とはいえ車が通る。
「たいき、てってできる?」
いつもは手を繋ぐのが嫌で抱っこになるのだ。
今日はおとなしく手を繋いで歩き出した。
と、足を止めて辺りを見回した。
植栽が植わって、少し広くなっているところで手を離す。
道端にかがみこんでは覗き込む。
猫じゃらしにさわる。草にさわる。木にさわる。
石畳にさわり、自動販売機にさわり、フェンスにさわる。
そのたびにたいきは「これは?」と聞く。
名前をいうと、たいきが舌ったらずにひとつひとつ復唱する。
ふと、気づいた。
昨日までは「これは?」なんてほとんど言っていなかった。
そうか。たいきはものの名前に興味を持ち始めたのだ。
一通り名前を言ってまわって、帰ってきた。
「てって」
たいきが自らてってといったのは初めてかもしれない。
したいことを一通りしたから、満足してこちらのルールに戻ってきたのだ。
なるほど。
ルールは理解してるけど、やりたい気持ちとのバランスが必要なのかと納得。
さっきから感動しっぱなしなのを隠しながら、手を繋いで歩いた。
家まであと100メートルほどのところで、抱っこになった。
きれいな半月が上がっていた。
「たいき、お月様がきれいだね」
「うん、ちょっちょ、おちきしゃま、こあい」
そうかぁ。おつきさま、怖いのかぁ。
「おちきしゃま、ちょっと、こあい」
そういうと、たいきはわたしの首に手を回して抱きついてきた。
なんか、大人の方の余裕って大事なのかなと思った。
今日はいくらでも待つぞ、という気持ちがどこか伝わっていたと思う。
普段は手を繋いだら、わたしが行きたい方に行くのだ。
そして、たいきのペースではあるけど、どこか、どこにでもは行かせないぞ、というような力は入っているのだ。
それがないとこんなにたいきは自由に走り回る。
そして、色々なものに興味を示す。
今しかさわれないものは、確かにある。
わたしは猫じゃらしにさわらないし、木にもさわらない。
アスファルトにもさわらないし、マンホールの蓋にもさわらない。
ひまわりの葉っぱにも、コンクリートの塀にもさわらない。
大体こういうものは、私たちの目には入っていないのだ。
今しか見えないのかもしれないし、今しかさわれないのかもしれない。
わたしは抱っこで、たいきの世界を狭めてしまっていたかもしれない。
たいきの感動に共感し、感動を広げて行くために、今日はあっけにとられてたいきを眺めるばかりだったけれど、明日からはわたしも一緒に色々なものにさわってみようかと思う。
ちなみに、朝、例のお父さんと同じように、送りで同じことをする自信は今のところ全くない。

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コメント一覧
長男(4歳)が1歳過ぎた頃の保育園の帰路を思い出して、懐かしさにグッときてしまいました。
でも、いま必要なのは大人タイミングの郷愁ではなく、4歳になった彼の視線の高さを大事にすることですね。