有田焼のここがすごい
有田焼、ってやつはすごいのだ。
どうすごいか、かいつまんでいうと
・朝鮮人の力で始まった
・オランダ人の企画を取り入れた
・中国のデザインをパクった
・ヨーロッパで大フィーバーした
・ドイツ人にパクられた
・さらにヨーロッパ中にパクられた
という具合。
しかも、これが、江戸時代までの話。
現代の話じゃないのだ。
佐賀県の有田というところに「柿右衛門」というおっさんがいて、今もいるのだけどその人じゃなくてそのご先祖の柿右衛門がいて、ヨーロッパの王侯貴族でこの名前を知らない人はいないくらいのフィーバーぶりだったらしい。
もちろんこのおっさん自身はヨーロッパに行ったことはない。
鎖国の時代の話だ。
もともとは日本では「陶器」というやつは作られていた。
「磁器」っていうのはなかった。
これを、秀吉の朝鮮出兵のときに半島から連れてこられた「李参平」というひとが「日本でも磁器を作れ」と無茶振りされて、土探しから始めて、なんとか作れるようにしたのだ。
江戸時代の初め頃、1610年頃の話らしい。
これが、有田焼の始まり。
ちなみに、李参平の子孫は今でも有田で陶芸家として有田焼を焼いている。
有田焼に転機が訪れたのは1650年ごろ。
このころ、中国で政権が交代して、というか、革命が起こって明王朝から清王朝に変わった。
明はヨーロッパにたくさんの磁器を輸出していたのだけれど、清は貿易を禁止してしまった。
困ったのは焼き物の商売で飯を食ってたヨーロッパの商社の人たちで、売り物を失った彼らは、中国の隣の国、日本にやってきた。
で、「中国風の焼き物を焼いたら買ってやる」という企画を持ち込んだというわけ。
ちなみにこの商社は、歴史で習った「東インド会社」というやつ。
この企画に乗っかって、有田の人たちは中国デザインの焼き物を焼きまくった。
下手をすると皿や壺の裏に「メイドインチャイナ」と書いたりもした。
もちろん漢字で。
『中国風』にもほどがある、と私は思う。
でも、中国からクレームはこなかったし、皿は売れまくった。
一説には、江戸時代に有田からヨーロッパに輸出された有田焼の数は100万個以上。
ものすごい輸出産業だったのだ。
先進国中国のコピー商品ビジネスでまるもうけ、ではあったけれども、ものも良かったのだと思う。
当時は有田焼じゃなくて「伊万里(イマリ)」と言ったのだけど、伊万里の作陶家「柿右衛門」なんかの名前もヨーロッパでは知れ渡るようになった。
ドイツのある王様が、この王様は陶磁器をコレクションしすぎて「日本宮殿」という陶磁器展示専用の建物を作ってしまうほどの陶磁器マニアだったのだけど、とにかく焼き物を買ってくるばかりじゃ満足できなくなって、自分のところでも同じものを作れないかと考えた。
で、錬金術師を捕まえてきて「この東洋の白い宝石と同じものを作るまでここからでちゃダメ」と幽閉して無理やり磁器の開発をやらせてしまった。
錬金術師も頑張って、本当にそこで焼き物を作れるようになった。
これが、ヨーロッパで一番伝統のある焼き物「マイセン」の始まり。
最初の頃のマイセンは「ドラゴン」とか「カキエモン」とか、怪しい中国風の焼き物を焼いていた。
デザインまで丸パクリで作っていたのだ。
こうしてしばらくはドイツで秘密の製法で作られていた磁器も、やがて技術が流出したり模倣されたりして、ヨーロッパの他の地域でも作られるようになっていく。
有田という町は非常に古臭くて小さくて貧乏くさくて、まさかこの町からヨーロッパの王侯貴族向けにものすごい数の芸術品が輸出されていたなんてことは、歩いただけでは思いもよらない。
いま、有田焼を見ても、多分、残念ながらそんなに強い感動はない。
でも、有田焼はすごかったのだ。
ということをちょっと、お伝えしたかったのです。
別に私は有田の人ではないけど。
おしまい。

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