お父さんであること

「大器晩成」の本当の意味、名前に込めた思い

うちの子の名前、「たいき」は大器晩成からとっている。漢字はそのままにするか他の字にするか、最後まで悩んだし議論もあった。いずれにせよ私はこの名前を半年以上かけて選んだ。こだわりぬいた名前と言っていい。

ところが、この「大器晩成」と言う言葉は、どうも辞書などを見てもいまいち正しい意味が出てこない。

これがストレスなので、ちょっと、「大器晩成」の意味をちゃんと説明しておこうと思う。

ちなみに手元の広辞苑(第五版)には

「[老子第四十一章「大方無隅。大器晩成」]鐘や鼎(かなえ)のような大きな器は簡単には出来上がらない。人も、大人物は才能の現れるのは遅いが徐々に大成するものである」

とある。大辞林(初版)も

「[老子]大きな器は早く完成しない意。大人物となる人間は、普通より遅く大成するということ。」

となっている。どちらも話にならない。確かに現代日本でそういう意味で使うことは多いが、原典は決してそういうことを言ってはいないのだ。


「大器晩成」は「老子」という本に出てくる言葉。

老子は「無為自然」がよいと説いた。一生懸命礼儀を勉強したり世の中で言われる「正しい形」にこだわったりする生き方を下らないといっている。人間が作ったルールを一生懸命守るよりも「道」に従って生きればおのずからよい生き方になる、というのが中心的な思想。

「道」とはなんなのかというのは老子も説明できないと言っているんだけれど、つまり「人間のあるべき姿、生きる上で寄り添うべき形で、それはとても自然なものである」という感じ。

一番有名でわかりやすいのは、お酒の名前で有名な「上善は水の如し」かなぁ。

上善如水、水善利萬物而不爭、處衆人之所惡、故幾於道

意味はこんな感じ。

「一番いい生き方は水のような生き方だ。水はあらゆるものの役に立ち、しかも誰とも争わない。みんなが嫌がるところ(つまり一番低いところのことだ)にもすすんで行く。ゆえに、「道」に近い」


で、本題。「大器晩成」が出てくるところ。正に「道」とはどういうものなのかを説明している部分に出てくる。

誰が読めるんだこんなもん、という話だけれど、まずは一応「老子」の原文。

上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、廣徳若不足、建徳若偸。質眞若渝、大白若辱、大方無隅。大器晩成、大音希聲、大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且善成。

【訳】

偉いやつが「道」のことを聞くと一生懸命そう生きようとする。中ぐらいのやつが「道」のことを聞くと「ふーん、そうなんだ。まじで?」ってなる。あほなやつが「道」のことを聞くと大笑いする。

でもね、笑われるようなものでなければ「道」とはいえない。こういう言葉がある。

「明るい道は薄暗く見える。進む道は戻るようにも見える。平らな道だとちょっとした起伏を大きく感じる。偉い人間は谷のように低くへりくだる。心の広い人間は物足りなく見える。本当の人格者はだらしなく見える。純粋なものは変化できる。真っ白な物は汚れて見える。

あまりに大きい四角形では隅が見えない。あまりに大きい器は完成が遅い(*完成しない、という説もある)。大きすぎる音は聞き取れない。大きすぎるものはっきりした形がわからない。」

「道」っていうのはこんな感じで、隠れていて目には見えないし、特別な名前もない。ただただ「道」なんだけど、全てのものの力となり、全てのものを成立させている。(「道」とはそういうものなんだ)

*「大器晩成」は「大器免成」の書き間違いと言う説があって、免のほうだと「完成しない」という意味になる。


老子の思想は「勉強して成長しろ」みたいな感じじゃなくて、ある意味「鷹揚にのんびり生きろよ」という風にも見えるので、その老子に「大器晩成」と書いてあったから誰かが「大物だからゆっくり成長すればいい」なんて解釈をしたのだと思う。

上の文章を見ればわかるように、老子は「ゆっくり成長しろ」みたいなことはひとつも言っていない。

大器晩成、というのはここでは「大きすぎる器を作ろうとしても、人間の力では作りきれないぐらい大きいものもある。「道」というのはそのぐらい大きいものなのだ」という意味で使われているだけだ。「大器」は「道」をたとえて言い換えた言葉の一つなのだ。

私はこの「たいき」という名前をここから取った。

つまり、私ごときが育てようとか考えるまでも無く、この子は生まれつき、私ごときの力ではどうにもならないぐらい「大きな器」なんだ、と。そしてそれは「人が生きるべき自然な姿」である「道」と同じぐらい大きいものだし、そもそもこの子は「道」そのものなんだ、と。

たかが1回生きただけ(覚えてる範囲では)の私が「人のあるべき姿」だの「正しい生き方」だのをわかっているわけはない。なんとなくこう生きてきて、いいことも悪いこともあったけど、正しかったのかどうかなんてわかりはしない。そんな私に教えられることなんか何にもない。

たいきは、たいきが生きたいように生きればいいし、生き方なんてものはちゃんと自分で見つけたほうがいい。


それでも、私はきっとたいきが何か人生を決断しなきゃいけないときに「それはだめだ」「こうしたほうがいい」なんてことを言いたくなるだろう。そのときに「たいき」と呼びかける。そして「そうだ、こういう思いで名前をつけたんだった」と思い出すことができる。

「たいきのしたいようにしたらいい。お父さんはそれが正しいのか、正しくないのかわからない。だってお父さんはその生き方をしたことが無いから。たいきがその生き方をおそるおそるでも勇気をもって選ぶなら、お父さんはそれが正しいと誰よりも強く信じるし、全力で応援するよ。」

そう、言うことができるかもしれない。

そういう思いをこめたのが「たいき」と言う名前なのだ。


とりあえず、たいきが「お父さんとはお風呂に入らない」という方針を決定して5日目。

寂しくて仕方ないけれど、今日も一人でお風呂に入った。

一人でお風呂に入ると、色々考えるし色々思い出すのだ。

今日の登園風景。ご近所のお宅の花壇に寄り道。

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