道端で何かに呼ばれてしゃがみ込むたいきは世界と対話していた

お父さんであること

これは「ぼのぼの」という1986年から今も続いているまんがの第1巻のいちページ。

ぼのぼの、すきだったなぁ。アニメ化もした。映画にもなった。ラッコの少年?「ぼのぼの」が主人公で、気が弱くていつも「いじめる?」と聞いている「しまりすちゃん」と乱暴者の「あらいぐまちゃん」がメインキャラクター。

大人向けのマンガなのでなかなか深いこともたくさん描かれてる。今考えると哲学的なマンガだったかもしれないけど、何も考えずに楽しんで読んでいた。


ぼのぼのは「ごめんねお父さん、ボクは呼ばれてるような気がするんだ」って言ってる。いや、正確には言ってない。タイトルに書いてあるだけだから、思ってるだけ。これをお父さんに伝えられるほど、ぼのぼのは大人じゃない。

ほんとは多分、ぼのぼのはここまではっきりとは理解してない。ただ、呼ばれてるんだろう。そしてお父さんが迎えに来るたびに「ごめんね」って思ってるんだろう。それを作者が忖度してこういうタイトルにしたのだ。


たいきは、ほんとにこのぼのぼのと同じように、道端のいろんなものに目を奪われ、気持ちを持っていかれる。それは、大人であるわたしが存在に気づかないようなものばかりだ。

目には入ってても、頭には入って来ていない、そんなものが世の中には溢れている。ゴミ捨て場のポスターに書いてある犬の絵とか、塀についてる道の足元を照らすための灯とか、道端に生えてる小さな草とか。たいきと道を歩くようになって、私は世の中の、主に私の膝より下のことに随分詳しくなった。


たいきは目線が低いし、視野も狭い。知識も経験も少ないから、大人にとっては膝より下にある役に立たないような少しの情報でも、目に入ると一生懸命それを理解しようとする。見るだけでなく、触り、たたき、嗅ぎ、出来れば舐め(あんまりさせないけど)、全身で情報を処理しようとする。

そしてひとつ1つ覚えていく。それはきっと、本能みたいな言い方で言えば生きるために必要な情報を得るために備えられた「好奇心」という能力だし、彼の主観を想像するなら、それは新しい知識を得るという、知的興奮を伴う、つまりとても楽しいことのはずだ。世界と対話する「科学」の一歩目を踏み出しているのだから。

それが目に入ると、他のものは見えなくなる。古いパソコンで、複数のプログラムを立ち上げるとフリーズしてしまったように、たいきもひとつのことしか考えられない。目に入ったものに強烈に引き寄せられてしまうのだ。これが「呼ばれた」の正体だ。

毎日同じものに触っているようでも、少しずつ同じものには飽きていく。それはもうそれを理解したということだ。ひとつひとつ触り、飽き、また新しいものに呼ばれてそれに触り、ということを繰り返して成長していく。たいきが道端にしゃがみ込んで何かに夢中になっているときは、たいきがこの世界と対話し、学習し、成長している時なのだ。


たいきが、道端をのろのろ歩いていく小さな虫を少し怯えながらも延々眺めているのを見ながら、こんなことを考えていた、という話。なにしろ呼ばれちゃってるのだからしかたない。たいきは悪くないのだ。
それはそれとして、なにしろひまだったんだもの。


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